7月24日は河童忌です。
河童忌は、大正時代を代表する文豪のひとり、芥川龍之介の忌日で、生前に河童の絵をよく描いていたことや、短編小説の「河童」にちなんで名付けられました。
他にも澄江堂主人という号にちなみ、「澄江堂忌」や、俳号の「我鬼」にちなんで「我鬼忌」と言われたりもします。
数々の作品を残し夭折した大作家、芥川龍之介
芥川龍之介の作品にはさまざまなものがありますが、学校の国語の授業で何かしらの作品に触れている人が多い作家のひとりではないでしょうか。
「羅生門」や「鼻」、「蜘蛛の糸」や「杜子春」といった作品は教科書にも取り上げられ、多くの人の心に影響を与えています。
芥川龍之介の作品は短編小説が多く、執筆を始めた20代の頃からの十年あまりの時間で300本余りもの作品を残しています。
その作品は夏目漱石に絶賛され、後世の作家に与えた影響も大きいといえます。
東京で生まれ育った芥川龍之介
芥川龍之介は1892年に東京の入船で、牛乳製造販売を行う夫婦のもとに生まれました。
龍之介が生後7ヶ月ほど経った頃、母親であるフクが精神に異常をきたしたため、本所にある母方の実家に預けられ、伯母のフキに育てられるようになります。
11歳のときに母親のフクが亡くなり、フクの兄である道章の養子として芥川姓を名乗るようになりました。
芥川家は江戸時代に徳川家に仕えていた家柄でもあり、芸術や演芸を愛する文化的な環境で思春期を送ることになります。
龍之介は幼少時から成績が優秀で、中学高校と優秀な成績を収め、21歳になった折には東京帝国大学英文学科に進学します。
高校の同期には菊池寛や久米正雄がおり、「新思潮」という同人誌をともに発行し、その中で処女作の「老年」を発表。
その後幼なじみである吉田弥生に失恋したことから「羅生門」が生まれます。
「羅生門」は文芸誌である「帝国文学」で発表されますが、当時は話題になることなく、芥川は苦悩の日々を送ったと言われています。
夏目漱石に見出され、一躍文学界のスターに
その後も同人誌「新思潮」は出版され、1916年にその中で発表した「鼻」が夏目漱石の目に止まり、漱石はこの作品を絶賛します。
そしてこの年、芥川は大学を卒業し、海軍機関学校で教師となります。
その傍らで執筆活動も続け、1917年には初の短編集となる「羅生門」が刊行され、さらに「煙草と悪魔」も発売されます。
漱石に見出されたことでスターとなった芥川はのちに大阪毎日新聞社に入社し、執筆活動に専念します。
しかし、その頃から神経衰弱や腸カタルなどを患い、身も心も病んでいくようになります。
1927年には芥川の姉の夫が自死したことで、その夫の残した借金や姉の面倒を見ることになったことが精神的負担となり、睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ったのです。
芥川龍之介とお酒
さて、芥川龍之介がお酒を嗜んだかというとそれはなかったようで、芥川自身は下戸だったことで知られています。
しかし、その作品に感銘を受けて生まれたお酒が販売されています。
田端酒造の羅生門は、酒蔵の5代目が黒澤明監督の羅生門を見ていたく感銘を受け「自分たちも世界に愛される、日本に誇れる日本酒が造りたい」という想いから生まれたお酒です。
何度もの試作を重ねて生まれた「羅生門 鳳凰」では、1989年にモンドセレクション菌床を受賞、その後もさらにブラッシュアップした「羅生門 龍寿」では最高金賞とパームリーブス賞を、日本のお酒では初めて受賞するまでになりました。
「羅生門 龍寿」はエレガントで上品な香りと、クリアで美しい口当たりながらも芳醇なしっかりとした味わいで、お米本来の味わいが楽しめるお酒になっています。
河童忌には黒澤明監督の羅生門を見ながら、こんなお酒を飲んでみるのはどうでしょうか。
きっとその作品の世界にしっかりと浸ることができますよ。